声と言葉とワーキングマザー

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「ほぼほぼ」は言葉の歴史遺産になるかもしれない

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昨日、“「ほぼほぼ」を使うセンス” という記事を書いたら、このブログ初めてのブックマークをいただいたこともあり、「ほぼほぼ」が頭から離れなくなってしまいました。

信号待ちとか、レンジでチンしている間とか、すきま時間はほぼほぼ「ほぼほぼ」について考えているというありさまです。

 

「ほぼほぼ」でGoogle検索してみたところ、最近の言葉として他に「とりま」「ワンチャン」「それな」などが出てきました。このへんは同期の言葉といえそうです。

どれも語感がよくて、つい口に出してみたくなりますよね。実際に使う使わないは別として、広く使われるようになった理由はちょっとわかるような気がします。

 

とはいえ同期といえど、「ほぼほぼ」と、「とりま」「ワンチャン」「それな」を一緒に考えることはできません。「とりま」たちは若い方が友だち同士で使う言葉という印象ですが、「ほぼほぼ」はもっと幅広い世代の方が友だち同士ではもちろんビジネスの場でも使っていますよね。

なんと谷垣禎一さんも国務大臣時代に「ほぼほぼ」を使って発言しているようです。

digital.asahi.com

ここまで広く支持されているのは、言葉の意味が汎用的であること、「とりま」たちと異なり明らかに「最近できた日本語」感がないこと(ほぼを重ねただけですものね)、などがあるかなと思いますが、なによりも、「ほぼほぼ」のもつニュアンスが今の時代の空気感を本当によく表しているからかもしれない、と思えてきました。

 

待ち合わせ中の会社員男性(27)に声をかけると、「進捗(しんちょく)度でいえば、ほぼは90%で、ほぼほぼは95%かな」と教えてくれた。

(「ほぼほぼ」、ほぼほぼ定着?新表現から見える今とは…/朝日新聞デジタル)

 「ほぼほぼ」は95%の進捗。わたしの感覚でもそんなものです。

でもこの95%って、90%よりちょっと上、ではなく、100%よりちょっと下、という意味なのではないでしょうか?

つまり「ほぼほぼ」の本質は、「ほぼ」=90%を強調することではなく、100%の進捗であるという成果を主張しながらもわずかな逃げ道は確保しておく、ということなのではないでしょうか。

「ほぼほぼ」という言い回しが嫌い!という方は、その「100%に近いことを主張しているわりに最後の最後でおよび腰」なところが不快なのかもしれません。

だけど今は、特にネット上では、たったひとつの言葉や行動を捉えて見知らぬ人にまで責め立てられることが誰にでも起こる時代です。実際に炎上を経験している人はごくわずかでも、日常生活でちょくちょく目にする他人の炎上はわたしたちの生活に影を落とし、時代の空気ににじんでいきます。

「ほぼほぼ」で残しておきたい最後の5%は、そんな空気のなかで生まれた保険なのかもしれません。

 

そう考えると、「ほぼほぼ」は現代の処世術です。

同期の「とりま」たちより圧倒的に使われるのは、その意味、質、存在自体が、時代をとてもよく表しているからという理由もありそうです。

ずっと先の未来、2016年前後の時代を知る手がかりとして「ほぼほぼ」は貴重な役割を果たすかもしれません。言葉の歴史遺産とされる、それくらいの存在感は、「ほぼほぼ」にはあります。