ら抜き言葉の何が悪い?
駆け出しラジオパーソナリティーの頃、インタビューさせていただいた方たち(主に50~60代の男性経営者の方が多かった)によく指摘されたものです。
「『ら』が足りないよ、プロなら気を付けないと。」
はずかしく思いながら、「見られる」「食べられる」など慎重に話していたら、今度は
「それって誰が?受け身なの?」
とからかわれたり…。
慎重すぎて言い方が不自然だったんでしょうね~。
ほんとおはずかしい。
(あ、生放送中のことじゃないですよ。
打ち合わせとか、お食事をご一緒したときとかの雑談でのことです。)
当時のわたしはら抜き言葉は「まちがった日本語だから使ってはいけない」と思っていました。
ですが今の私の考えは違います。
ら抜き言葉はまちがった日本語ではないし、使ってもかまわないと思っています。
ただし…、という条件付きではありますが。
ら抜き言葉について、毎日新聞にすばらしい記事が掲載されていました。
3人の専門家が言葉の本質を語っていらっしゃいます。
わたしが特に共感する部分を引用させていただきますね。
そもそも「正しい日本語」など存在しない。日本語は常に変化の過程にあり、基準となるべき指標はないからだ。
(金田一秀穂・杏林大教授)
「来られた」「見られた」などの言葉は、尊敬と可能のどちらを表すのか判断が難しいが、「ら」を抜けば混同がなくなる。ら抜きは日本語を使う多くの人が下した合理的な判断の一つなのだろう。
(永井愛・劇作家)
※強調筆者
まず、言葉を「正しい」「まちがってる」と断じることはできないという点です。
言葉は生きていて、どんどん変わっていくわけですから。
だからといってどんな言葉を使ってもいいのかというと、そうではありません。
美しい言葉、品のある言葉、正しく伝わる言葉、
よいものを追求することはとても大切です。
ただ、「美しい」「品のある」「正しく伝わる」、どれも時代によって変化するものだということを忘れてはいけません。
ではどうしたらいいのでしょうか?
そろそろら抜きが市民権を得てきたようだから、解禁!
…というのも、なにか違いますよね。
わたしの考えはこうです。
「ら抜きだろうとなんだろうと、伝えるという目的のために、意識的に言葉を使うこと。」
ら抜きに限った問題ではないんです。
上記の記事ではみなさんこのように述べられていました。
「正しい日本語」以上に僕が大切にしたいのは「言葉の本意を受け取る」ことだ。
(金田一秀穂・杏林大教授)
私たちは人の言葉の間違いをただす前に、自分がどういう言葉を使うかについて自覚的であるべきだ。
(永井愛・劇作家)
ただ、言葉は場を選ぶ。(中略)面接試験やお茶の会など公的な場面では、ら抜き言葉は控えた方がいいだろう。
逆に「絶対に『ら』を入れる」と気負い過ぎても、かえって場から浮いてしまう場合もある。そんな時はさりげなくら抜き言葉を使うのも、世の中を生きていく上でのたしなみと言えるだろう。
(梶原しげる・フリーアナウンサー)
※強調筆者
「ら」を入れるか入れないかは本質ではありません。
何を思って「ら」を入れるのか、何を思って「ら」を入れないのか、です。
ら抜きに強い抵抗を持つ方に向かって「あのお店ではすごくおいしいステーキが『食べれ』ますよ」と言ってしまうと、相手はおいしいステーキのことよりら抜きが気になってしまう恐れがある、ということです。
尊敬の「見られた」ではなく可能の「見られた」であると強調したいときには、あえて「見れた」と言って混乱を避けてもよいと思います。
伝わりさえすればなんでもいいと、言葉そのものを軽くみているわけではありません。
どんなに気を配った言い回しで「正しいとされる日本語」だとしても、伝わらなければただの音です。
伝えるという目的をもって、意思と責任のもとに使う。
その意識だけが言葉に命を吹き込み、すなわち言葉を大切にするということなのではないでしょうか。
見れる、食べれる、来れる、…
あなたは使いますか?
それは誰に向かって、どんなときに?