わたしたちは、わかりあえない。
いつも深く考えさせてくれるブログ「スズコ、考える。」に、コミュニケーションについて本質的な話題がありました。
先に「公共の場での授乳に関する投稿から考える、授乳室の現状とそれぞれの事情」という記事があり、その補足として書かれたのが上記の記事です。
公共の場での授乳の是非をめぐる問題から、個人が考えを述べるときに意識したほうがよい問題について述べられています。
具体的には、
「公共の場で授乳してもよい」と考える方が、
「公共の場で授乳するのはやめてほしい」と考える方に向かって、
「子供のいない人にはわからないよね」と言ってしまうのはタブーだ、という話です。
そうなんですよね、わからないんです。
でも、だからこそ「子供のいない人にはわからない」と言うのはタブー。
詳しくは、スズコさんのブログを読んでいただくとして。
わたしが書きたいのは「わからない」ということについて。
わかりあえないという前提をもてないと、日常のあらゆるコミュニケーションがうまくいきません。
でも、これが意外とむずかしい。
例えば仕事では、コミュニケーションミスをゼロにしようと考えていると余計にミスが起こるものです。
どんなに言葉を尽くしても、相手がその言葉を自分の意図通りに受け取ったかはわからないし、
相手のなかでだんだん意味が変化してしまうことだってあるし、
とにかく思い通りにはいかないです。
それなのに、
あんなに伝えたのに、どうしてわからないの?!
なんて考えるのは、まったく余計なストレスです。
報告したり連絡したり相談したり、進捗を確認したり、細かいことの積み重ねが大事だとされるのも、そもそもわかりあえないからこそですよね。
わかりあえないから、できるだけ近づけるように、すり合わせて、軌道修正して、進めていきましょうということ。
プライベートでも同じです。
自分の気持ちを「わかってくれるはず」と思い込み、それがかなわないと裏切られたかのような気持になってしまう。
わかってもらえると思うのがそもそものまちがいなんですよね。
自分だって、誰かのことをすべてわかるなんてことできないですし。
わからないということを前提にして、そのうえでできることを考えなくてはいけません。
コミュニケーションの目的というのは、わかりあうことではなく、
わかりあえないわたしたちが、どうにかして繋がりを見出すことなんだと思います。
繋がりを求めるときに忘れたくないと思うのは、以前こちらの記事で紹介させていただいたこの言葉です。
私たちはイスラームの人たちの内界を本当には知らない。分かってあげられない。しかし分かっていないことは分かっている。ウェスト夫人は私の見た限り、彼らを分かろうと聖人的な努力を払っていた、ということは決してなかった。彼らの食べ散らかした跡について、彼らのバスルームの使用法について、彼らの流す大音響の音楽について、いつも頭を抱え、ため息をつき、こぼしていた。自分が彼らを分からないことは分かっていた。好きではなかったがその存在は受け容れていた。
理解はできないが受け容れる。ということを、観念上だけのものにしない、ということ。
(春になったら莓を摘みに/梨木果歩)
※強調筆者
わたしたちは、わかりあえない。
でも、受け容れることはできるはず。
ささやかな繋がりはその先にあるんじゃないでしょうか。